参拝

正月というと多くの人は初詣に行くのであろうが、私は行かない。神は自分の心の中にあると考えているからだ。
しかしながら家族の手前、神社に参拝に行く振りだけはした。初詣に行かないと正月のおせち料理を食べさせてもらえないのである。
神社に行くふりをしてコンビニエンスストアでチョコレートやクレープなどのお菓子を買ってきて食べた。


それでお菓子を食べながら考えた。



まずは、自分の負けを認めることから始まるのだと、あの社長は言った。これには私も思い当たる節がある。前回は身体の力を抜いて浮かび上がったのは自分の負けを認めて全てを諦めたからである。諦めると同時に違うものが降りてきた。とても不思議な体験であった。あの世と、この世の真ん中あたりで生きている感覚である。今回、私は何を諦めて何を捨てるべきであろうか。

こんなことを考えながら生きてきて、もう二十年ほどたってしまった。

これ以上、何をどうしろというのか。

俺は人生という博奕に失敗したのか。どうやら、そのようである。一発、当ててやろうと絵を描いた。一発当ててやろうと小説を書いた。億万長者になってやろうと商売を始めた。

絵も小説も芽が出なかった。かすりもしなかった。商売も、そこそこである。これが人間の器量であろうか。

気が付けば、こんな歳である。従弟や親戚の子ども、学生の時の後輩にも追い抜かれたのか.俺は人生という博奕、ギャンブルに失敗したのであろうか。

人によれば、自分が負けたと思わなければ負けではないというのだが。負けは負けとして潔く認めた方が良いのではないか。

 目の前に起きた出来事から何かを学べと師匠は言う。眼前に表れた事象は何事かを教えるために、表れたのだと師匠は言うのだ。そこから何かを気付け。何か を教えるために起きた理由があるのだ。では、私は己の人生に起きた、この状態から何を学ぶべきか。何を気付くべきか。これは本来あるべき姿に戻るために起 きているのだから。


確かにそうであろう。過去を振り返っても思い当たる節はたくさんある。大きな学びは壁を乗り越え得た時に得たものである。

限りなく黒に近い灰色の日々。面白くもない家族との生活。こうしたことは私に何を教えようとしているのであろうか。

今回の学びは、ずいぶんと時間がかかっている。
本当は、どうなりたいの?

自分自身に問うてみたら、どうであるか?

あの時、俺は俺であった。

今は、どうだ?


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