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俺の人生


俺の人生は俺のもの。

死ぬ時に、あるいは生きている、この瞬間に

あー、よく頑張ったね。

あー、よく楽しんだね。

と、俺が俺に対して言えれば、それで良いのだ。

自分以外の人間の言うことは関係ない。

俺の人生は俺が納得するためにある。

俺以外の人間を納得するためにあるのではない。


日本の学校システム

日本の学校システムは北朝鮮を量産するところ。

嫁の胸



男ばかり数人で飲み屋に行った。脂っこい顔をしたオッサンばかり?かもしれない。昔はみんな、それなりに格好良かったのかもしれないが。。

俺だって昔はモテた。今はサッパリかもしれないが。合コンでも一番人気だった。とは言え過去の話であるが。


それで、お互いの近況報告から始まり、下らない昔の思い出話、ゴルフの話、釣りの話なんかをひと通りした後に、「自分の結婚は成功だったのか?失敗だったのか?」なんて話題になった。

おっさんどもは自分自身が劣化していることは棚に上げて、子供を産んでからの嫁が性格的にも身体的にも如何に変わってしまったかを嘆いていた。

嫁が母親になることで「女」というか「妻」ではなくなったという意味のことを複数の人間が言った。

独身の人間は、「へー、そんなものかね?」みたいな顔をしていた。


胸フェチ、オッパイフェチの男は、かつては「巨乳」が自慢だった嫁の胸が出産、授乳を機会に如何に垂れ下がった、ぶら下がった、しわしわに萎んできたかを嘆いてきた。

ただ垂れ下がってきただけではなく、しぼみ、そして若い時にはサーモンピンクのような色をしていた乳輪、乳首が熟しすぎて腐敗が進み、腐乱が始まったイチジクのようになってきたと、みんなの前で言うのだ。

この男の嫁は、かつて我々の間では一番人気のある女性であった。若い時に美しくても年齢を重ねることで肉体は劣化、老化を止めることは出来ないのだ。

しかし、人前でそんなことを言うかなー、というのが私の正直な感想である。

私なら、たとえ嫁が劣化してきても、人前で愚痴めいたことを口外することは考えられない。

身内の恥をさらすようなものではないか?

この男は嫁にはまったく性欲を感じない。触手が動かないという意味のことを言った。

「だったら離婚したら、どうだ?」

場にいた一人が言った。

口には出さなかったが私もこの意見に賛成したものである。


「離婚」を言われて、この男は押し黙ってしまった。図星?だったのか?

さらに追い打ちをかけるように、

「再婚するか?」まで言われた。

観察していると彼には、そこまでの覚悟と度胸は無いようであるが。。


彼は、そこで酒を二三杯、続けてあおった。

「嫁がパソコンで、こっそり、こんなサイトを調べていたんだ」、と自身のスマートホンで、嫁が見ていたというサイトを見せてくれた。


これ
嫁もオンナであることを努力しているから無下には出来ないと言うのだ。


やはり、お互いに愛し合っているのであろう。




コンタクトレンズとメガネ

久々に親戚の子供に会った。
正月なのでお年玉をあげることになった。これで何人目になるであろうか?正月は出費がかさむ。自分も子供の時に貰っていたから、当然といえば当然であるが。

この子供は顔を見ると以前とは随分と雰囲気が違う。

何が変わったかというとメガネをかけていないのだ。確か、強度の近眼だったはずである。親族のものは、多くがメガネをかけているので近視は遺伝かもしれない。

それにしても、メガネをかけないだけで、こんなにも雰囲気が変わるものなのか!という感じがする。少女漫画で主人公のメガネブスがメガネを外したら実は美人だったというオチがあるが、まさにあんな感じであった。

それで、まだ高校生だと思っていたら既に大学生であった。関西の私立に通っているという。親元を離れて下宿生活、一人暮らしである。

親の立場からすると女の子の一人暮らしは不安があるのでは?と思うが仕方がないと諦めているようである。メガネを外して、これだけ美人であれば、さぞかし男どもにもモテているのではないか?親元を離れているから好き放題やっている?というのは私の勝手な妄想か?別に妄想でも構わないのであるが。

それで、アルバイトと学業、ともに時間がまったく足りないという。それで最近は時間の節約のためにネット通販を使うことが多いという。

アマゾンや楽天での買い物である。

ちなみにコンタクトレンズもネット通販で購入しているという。

使っているのはココ⇒コンタクトレンズ 処方箋なし 通販

私が学生のころは、インターネットで買い物をするなんて信じられなかった。こわくてクレジットカード情報なんて入力出来なかったものである。

悪用される恐怖があった。今ではスマートホンで買い物が出来るのだ。時代は変わったなあ。

そのうち、この子はコンタクトレンズも不便なのでレーシック、レーザー近視治療をするかもしれない。今は学生なのでカネもないであろうが、社会人になって働き始めて、ある程度のまとまったカネが出来たらするのではないか。


参拝

正月というと多くの人は初詣に行くのであろうが、私は行かない。神は自分の心の中にあると考えているからだ。
しかしながら家族の手前、神社に参拝に行く振りだけはした。初詣に行かないと正月のおせち料理を食べさせてもらえないのである。
神社に行くふりをしてコンビニエンスストアでチョコレートやクレープなどのお菓子を買ってきて食べた。


それでお菓子を食べながら考えた。



まずは、自分の負けを認めることから始まるのだと、あの社長は言った。これには私も思い当たる節がある。前回は身体の力を抜いて浮かび上がったのは自分の負けを認めて全てを諦めたからである。諦めると同時に違うものが降りてきた。とても不思議な体験であった。あの世と、この世の真ん中あたりで生きている感覚である。今回、私は何を諦めて何を捨てるべきであろうか。

こんなことを考えながら生きてきて、もう二十年ほどたってしまった。

これ以上、何をどうしろというのか。

俺は人生という博奕に失敗したのか。どうやら、そのようである。一発、当ててやろうと絵を描いた。一発当ててやろうと小説を書いた。億万長者になってやろうと商売を始めた。

絵も小説も芽が出なかった。かすりもしなかった。商売も、そこそこである。これが人間の器量であろうか。

気が付けば、こんな歳である。従弟や親戚の子ども、学生の時の後輩にも追い抜かれたのか.俺は人生という博奕、ギャンブルに失敗したのであろうか。

人によれば、自分が負けたと思わなければ負けではないというのだが。負けは負けとして潔く認めた方が良いのではないか。

 目の前に起きた出来事から何かを学べと師匠は言う。眼前に表れた事象は何事かを教えるために、表れたのだと師匠は言うのだ。そこから何かを気付け。何か を教えるために起きた理由があるのだ。では、私は己の人生に起きた、この状態から何を学ぶべきか。何を気付くべきか。これは本来あるべき姿に戻るために起 きているのだから。


確かにそうであろう。過去を振り返っても思い当たる節はたくさんある。大きな学びは壁を乗り越え得た時に得たものである。

限りなく黒に近い灰色の日々。面白くもない家族との生活。こうしたことは私に何を教えようとしているのであろうか。

今回の学びは、ずいぶんと時間がかかっている。
本当は、どうなりたいの?

自分自身に問うてみたら、どうであるか?

あの時、俺は俺であった。

今は、どうだ?